富岡賢治
50万人都市と同じ活力と機能をもった、
さらに「新しい高崎」をめざします。
スピード感のあるエキサイティング
都市づくりを市民感覚で進めます。
“さらに”
新しい高崎
ごあいさつ
「変革する高崎」
いつまでも、ずっと
暮らしたい高崎
高崎市をさらに逞しく、豊かに発展させていくための実現可能な富岡賢治の都市戦略です。基本的な考え方は、高崎に「人・モノ・情報」を集積させ、ビジネスを盛んにする。また大地の恵みやモノづくりの技術を生かした生産活動を活発にする。そしてこのことを基盤にして、福祉や子育て環境、教育、文化芸術、スポーツなど市民生活を豊かにしていきます。
そして今、市民の皆さんが「いつまでも、ずっと暮らしたい高崎」にしていくために、「出来ることは、何でもやる すぐにやる」姿勢で積極的に取組んでいきます。
高崎は今や首都圏と北陸・上信越を結ぶ中心都市としてその存在感を高め大きく動いています。美しい自然環境と活力ある都市機能が融合し、多様性と個性的な文化のあるまちとしても注目されています。
高崎アリーナや高崎駅前に商業施設がオープンし、また今年の9月20日には高崎芸術劇場もオープンします。高崎の集客力は飛躍的に向上するとともに、高崎を中心に新たなビジネスを展開しようと、大手企業の支店や営業所が、市外県外から次々と移転してきています。
高崎アリーナではトップアスリートが集まり全日本・世界レベルの大会が連続して開催されています。人気ミュージシャンによる大型コンサートも行われるなど、市内だけでなく群馬県内にも大きな経済効果を生み出しています。
高崎のまちなかの通行量も、JR高崎駅の乗降客も、高速道路の入込台数も増大の傾向が続いています。そしてそのことが中心市街地ばかりでなく、高崎市全体に活力と新たな賑わいをもたらしています。東京や大宮などに向いていた若者の目線・動線が高崎に戻ってきています。さらに群馬県内からも「高崎にはワクワクすることがある」という雰囲気を生みだしています。
今、高崎市はさまざまな分野で注目を寄せられていますが、その中でも「高崎の食」がブームをつくりだしています。高崎市では以前から東京ドームや大阪・食博覧会など食のイベントに出展したり、農畜産物や加工品のキャンペーンを行ってきました。当初は全くといっていいほど知名度がありませんでしたが、繰り返しチャレンジすることで、飲食店経営者や生産者のモチベーションが高まりブランド力も向上し、首都圏での知名度は徐々に高まってきました。
新たな取り組みとして、市内の零細ですが老舗の飲食店をインターネットでPRする「絶メシ」を始めました。新聞・テレビなど多数のメディアに取り上げられた結果、紹介された店だけでなく、全国から「高崎」が注目を受けることになりました。
地元の人たちに愛されてきた「まちのグルメ」が、工夫次第では日本全国に発信され、人を呼び込むことができる。これは全国初の取り組みで、地方文化の新しい発信手法です。今後も知恵を出し合い工夫を重ねていくことで、「食」以外でも高崎を再発見し、高崎の魅力を情報発信していくことができます。
また、安心感のある市民生活を実現するためには、これからの社会は女性の活躍と子育て環境の充実が大きな課題です。その取り組みの一環として、例えば高齢者福祉と子育ての複合施設「シルバーセンター田町・子育てなんでもセンター」を開設しました。育児に関する相談ならなんでも受け付けるワンストップサービスで、子育て世代の仕事と育児の両立を実現するため、プロの職員が子育て相談や就職支援に当たっています。
お年寄りや障害のある人への支援として「待つ福祉から出向く福祉へ」を合言葉に地域の「高齢者あんしんセンター」も拡充されました。電話一本で介護スタッフが駆けつける「介護SOS」や、GPSを使った「はいかい救援システム」など、全国でも類を見ない手厚い支援事業も実施されています。
こうした支援を充実させることで、地域社会に住む誰もが、住み慣れた地域で安心して暮らすことのできるまちづくりを進めています。「いつまでも、ずっと暮らしたい高崎」にしていくために、これまでの取組みをさらに充実させていきます。
さて、これからの高崎市の都市づくりを前進させていく際に重要なのがデータです。「高崎市の実力は全国何番目なのか?」など高崎市の都市としての実態や実力を把握することが大事です。
最近、高崎市は「全国から注目されるようになっている」、「全国の地方都市の中でもがんばっている」との評価がメディアで取り上げられるようになりました。では果たして高崎市は全国で何番目くらいにランキングされる都市なのでしょうか。さまざまな統計数値から高崎市の姿を検証してみると、高崎市は全国の人口50万以上の都市がライバルになっていることがわかります。全ての分野で上位というわけにはいきませんが、高崎市の実力が、全国を代表するような都市と肩を並べるようになったことも、最近の高崎市の成長や発展を表しているといえます。
例えば、平成28年調査の高崎市の卸売業・小売業の合計額は全国15位となっています。中核市では連続して第1位です。20位以内の都市は高崎市を除き全て政令指定都市(100万都市)で、商業については政令指定都市と競争しているのです。
この他にも高崎市は全国ランキングに登場します。幸福度ランキングで全国3位(東洋経済新聞社2016)、活力ある都市全国29位(日経ビジネス2016)となっています。統計データから試算できる全国順位では、人口は全国55位、産業規模は全国31位、工業出荷額は全国88位などとなっていて、高崎市が戦う土俵は全国であることが示されています。
このようなデータは、高崎市の人口は37万4千人ですが、既に50万都市と同じ規模と機能をもつ都市であるということを示しています。
今、高崎は根本から生まれ変わり質的な変化を遂げています。「関東と信越つなぐ高崎市」は、単に「つなぐ都市」から文字通り「中心都市」「創造都市」としての機能と役割を持つ都市に「変革」しています。
企業誘致、商業・工業・農業の活性化、新しい都市型サービス産業の育成。高崎アリーナ・高崎芸術劇場・高崎駅東口再開発など賑わいを創出する都市政策。潤いのある穏やかな暮らしをもたらす福祉、介護、子育て支援の質的充実。教育、文化、スポーツ、市民活動の振興、快適で安全な住環境の整備。これらの施策を「高崎でしかできない、高崎らしいやり方」で実現していきます。そのために「変革する高崎」を掲げて、細やかさと大胆さをもって実現していきます。
高崎の総合力が企業と
新しいビジネスを呼び込む
高崎の強みは何かというと「交通の拠点性」です。しかし、その次にくる特徴がありません。「交通の拠点性」は一番大事なポイントですが、それだけでは企業は来ません。バランスの取れた幅広い産業があるとか、ある程度の人口があるとか、よく言われるのは、「文化度が高い」ということです。▶もっと詳しく…
高崎の強みは何かというと「交通の拠点性」です。しかし、その次にくる特徴がありません。「交通の拠点性」は一番大事なポイントですが、それだけでは企業は来ません。バランスの取れた幅広い産業があるとか、ある程度の人口があるとか、よく言われるのは、「文化度が高い」ということです。それと災害や犯罪が少なく、安心して暮らせることです。そういう都市としての総合力が相乗的に影響してくるわけです。インフラの整備とか、企業誘致のための優遇措置は日本のトップクラスにしてきましたが、それだけでは企業は動かない。高崎の都市としての総合力が大事なのです。
高崎についての印象を東京の一流経済人とか海外のトップアスリートは、「街がビューティフルだ」と言います。最初私も不思議に思ったのですが。別にすごい観光名所があるわけでもないし、すごい建物があるわけでもない。ただビジネスが盛んな街なのに路地の一つ一つ入ってもきれいでゴミ落ちてないこういうのはすごい、これが「ビューティフル」なのだと。高崎まつりで花火が終わった翌朝にゴミ一つ落ちていません。これは清掃業者にやってもらっているのではなく、青年団体など市民がやっていることです。
こういう事実が東京の企業の取締役会や経済団体の集まりなどで話題に上るのです。こういうことも高崎が注目される要因になっています。
高崎に来てもらいたい企業としては、もちろん優良企業であることは前提ですが、雇用の吸収力があるというのが一番重要です。高崎は食品工業の分野が割と強い都市です。食品工業は環境に対して意識の高い企業です。落ち着いた市民生活を確保できているのは、そういう企業が集まってきているからだと思います。
また、私が意識的に行っている施策として、高崎の税金は高崎の会社に使ってもらうという考えを徹底していることです。公共事業の入札では、高崎の会社でないと請け負えない。これができるのは、高崎の産業界が多岐にわたって優秀な企業がバランスよく存在しているからです。
昔から商都高崎といわれていますが、高崎の経済産業活動をよく見つめてみると、「ものづくり」が基盤にあることがわかります。「ものづくり」の上に商業が存在しています。このバランスが高崎の強みです。これがまた多様な分野の企業が進出しやすい土地柄になっているのではないでしょうか。 ▲閉じる
高崎のブランド力の向上を
残念ながら高崎には有名店がありません。群馬県全体がそうです。首都圏で知られているような飲食の有名店がほとんどありません。だからブランド力を上げた有名店を作ろうと思い、大手広告代理店の知恵を借りて勉強し始めました。そうしたら大手広告代理店の若いクリエイターが「市長さん有名店を作りたいなら派手にお金かけて、▶もっと詳しく…
残念ながら高崎には有名店がありません。群馬県全体がそうです。首都圏で知られているような飲食の有名店がほとんどありません。だからブランド力を上げた有名店を作ろうと思い、大手広告代理店の知恵を借りて勉強し始めました。そうしたら大手広告代理店の若いクリエイターが「市長さん有名店を作りたいなら派手にお金かけて、見栄えのいい格好の店作って、一流のシェフを呼んでマスコミにアピールすればいい。でも、そういうお店は東京だったら掃いて捨てるほどある。そうじゃなくて、高崎の街角や路地の住民が愛している店をアピールしましょう。それが地方文化の発信じゃないですか!?地方創生とはそういうことではないですか!?」と言いました。私は市長として、そんなこと教えてもらうまでもないとちょっとムっと来ましたが、それがあらためて妙に新鮮に聞こえて、「よし、じゃそれにしよう」って決めて「絶メシ」が生まれました。
おかげさまで、テレビや新聞、インターネットなどさまざまなメディアで反響を呼びました。昨年は広告業界最大級のコンテスト「ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS」の部門で最高賞をいただくなど、広告費に換算すると14億円以上の宣伝が行われました。聞き取り調査によれば、掲載された店舗にはお客も増え、街への経済効果もかなりあったと思います。
しかしながら、お客は増えましたが、後継者や事業承継まで行くかといえば、そこまで行くのは大変です。ですが、一番大事なのは、その店を経営している皆さんが胸を張って、地元の味を伝えるって意欲を持つようになりました。これが大きな成果だと思います。 ▲閉じる
高崎に住みたい人を増やす
という新しい課題
高崎は毎年、就業人口が毎年2000人ずつ増えています。地方都市でこのような街はありません。それから昼間高崎で働いてる人で、住まいが高崎以外の方が7万人近くいます。群馬県経済の中心都市ですからおかしくはないのですが、高崎に住まいがなくて、例えば前橋から1万7000人が毎日▶もっと詳しく…
高崎は毎年、就業人口が毎年2000人ずつ増えています。地方都市でこのような街はありません。それから昼間高崎で働いてる人で、住まいが高崎以外の方が7万人近くいます。群馬県経済の中心都市ですからおかしくはないのですが、高崎に住まいがなくて、例えば前橋から1万7000人が毎日高崎に通ってきています。住所が藤岡にある人が5000人、伊勢崎にある人が5000人、埼玉にある人が2000人。また、東京や横浜に住所があったりする人が2000人ずつ位いるんです。こういう方は単身赴任しているわけです。
高崎で働く人が増えれば人口も増えると思っていましたが、しかし実態は働く人が増えても必ずしも住民、市民になってくれない。その割合の多さは想定外のことでした。都市が発展するには交流人口と定住人口がバランスよく増えていかないといけないのですが、交流人口は間違いなく増えていますが、定住人口も増やしていかなければなりません。そのためには福祉や医療とか教育などをさらに充実させる必要があります。さらに住まいを高崎に確保しやすくすることが今後の大きな課題だと思っています。そのためにマンションが戸建て住宅を建てやすくする規制緩和を大胆に進めて、高崎の定住人口を増やしたいと考えています。 ▲閉じる
全国のスポーツ選手が
「高崎」を目標にする
高崎アリーナには東京オリンピックまで国際大会がどんどん入ってきています。今年、決まっただけでも全国ネットワークでテレビ放送される大会が6つ開催されます。
高崎アリーナが高崎の交流人口や集客人口を増大させ、高崎の街が劇的に変わってきています。市民も世界のトップアスリートの競技を▶もっと詳しく…
高崎アリーナには東京オリンピックまで国際大会がどんどん入ってきています。今年、決まっただけでも全国ネットワークでテレビ放送される大会が6つ開催されます。
高崎アリーナが高崎の交流人口や集客人口を増大させ、高崎の街が劇的に変わってきています。市民も世界のトップアスリートの競技を間近で見られるようになりました。海外からの選手も多く訪れるようになり国際色豊かな光景が見られるようになりました。
今年は浜川運動公園の拡張工事もかなり進みます。美しいスポーツ公園の中にテニスコートとか女子ソフトボールの専用球場を作ります。高崎は世界的なソフトボールシティです。ビックカメラ高崎、太陽誘電という日本を代表する女子ソフトボールチームがあり、宇津木妙子、宇津木麗華、上野由岐子というレジェンドが高崎に住んでいます。そして彼女らに続く多くのオリンピック選手が育っています。
また、高崎は清水善造というウィンブルドンの最初のテニスプレーヤーを生み出した街です。浜川運動公園には清水善造メモリアルセンターコートを作って、全国の若者がそのセンターコートで決勝大会に出場するという夢を見るような、そういう街にしたいと思っています。
地方都市も国際化が進んでいますが、高崎市民がこれから海外からのアスリートや観客へのおもてなしが必要ということで、市民の皆さんの中で通訳ができるという方、実力がある方は手を挙げてくださいと市民全部にアンケートしました。
その結果は驚くべくことに、高崎市民であわせて15か国語も通訳、翻訳できる人がいるということがわかりました。そこで高崎の国際化の動きにもっと拍車をかけていくために、教育の面で言えば、ネイティスピーカーを各学校全校に配置したのは30万都市として初めてだと思います。また、倉渕に英語村を作り国際化に一気に対応していこうと思っています。 ▲閉じる
高崎芸術劇場が加速させる
文化への情熱
高崎は「音楽のある街」と言われ、自らも標榜してきましたが、実際は「街中に音楽があふれている」というイメージはなかったわけです。ですから、音楽が本当に日常的になるよう仕掛けをしようと思ったわけです。高崎芸術劇場が完成して世界的なアーティストが頻繁に高崎で演奏会を行ったり、今まで音楽センターでは出来なかっ▶もっと詳しく…
高崎は「音楽のある街」と言われ、自らも標榜してきましたが、実際は「街中に音楽があふれている」というイメージはなかったわけです。ですから、音楽が本当に日常的になるよう仕掛けをしようと思ったわけです。高崎芸術劇場が完成して世界的なアーティストが頻繁に高崎で演奏会を行ったり、今まで音楽センターでは出来なかったコンサートやエンターテインメントが開催されるようになれば、街に刺激を与え新しい高崎の文化や芸術を生み出すきっかけにもなります。
市民の文化創造に対する飽くなき情熱が高崎の街にはあります。高崎市民展覧会でご挨拶をしますが、もう83回も開催しています。戦争中も開催していたということです。本当に市民の文化性が強い。シティギャラリーの展示室は年間通していつもいっぱいです。こんな地方都市はありません。こういう文化への強い思いが基礎にあるからこそ、高崎芸術劇場ができるんだと思います。 ▲閉じる
全ての施策を見直しさらに
新しい高崎へ
私は2期8年間にわたり市政を担わせていただきましたが、さらに新しい高崎に向かって、市政の全部の分野で見直しをかけていきます。定住人口を増やすためには、都市としての総合力を高めていかなければいけません。何か一つの分野や施策で解決していくような課題ではありません。もう一度改めて全部を見直して、やれることは▶もっと詳しく…
私は2期8年間にわたり市政を担わせていただきましたが、さらに新しい高崎に向かって、市政の全部の分野で見直しをかけていきます。定住人口を増やすためには、都市としての総合力を高めていかなければいけません。何か一つの分野や施策で解決していくような課題ではありません。もう一度改めて全部を見直して、やれることは何でもすぐやる、挑戦しようと思います。
「高崎はすごい、アグレッシブだ」というふうにイメージを持たせていけば、人は集まってきます。やればやるほど反応があります。だからこそやっていきたいという思いでいっぱいです。 ▲閉じる
プロフィール
公正さと決断力。
豊富な行政経験を活かした市政
さらに「新しい高崎」へ。
昭和21年8月20日生れ(72歳)
  • 尊敬する人:吉田茂、父親(富岡熊造)
  • 趣味:映画鑑賞、囲碁、ゴルフ、ドライブ
  • 好きな作家:松本清張
  • 好きな俳優:アラン・ドロン、アル・パチーノ、仲代達矢
  • 好きな歌:歌謡曲は伊藤久男、五輪まゆみの歌、洋楽はプレスリーの歌、1960年代のオールディーズ、エディット・ピアフのシャンソン
  • 好きな食べ物:ステーキ・ホルモン
  • 好きな飲み物:ビールとバーボン
  • 好きなスポーツ:アメフト、メジャーリーグ観戦。
    (少年野球の花形選手だった)
  • 血液型:O型
  • 家族:妻 道子、一男一女
学歴
  • 高崎市立南小、城南小を経て
  • 昭和34年3月 高崎市立塚沢小学校卒業
  • 昭和37年3月 高崎市立塚沢中学校卒業
  • 昭和40年3月 群馬県立高崎高等学校卒業
  • 昭和44年6月 東京大学法学部卒業
経歴
  • 昭和44年7月 文部省入省
  • 昭和53年4月 岐阜県教育委員会学校指導課長
  • 昭和56年3月 外務省在フランス日本国大使館一等書記官
  • 平成08年7月 文部省総務審議官
  • 平成10年4月 文部省生涯学習局長
  • 平成12年6月 国立教育研究所長
  • 平成13年7月 財団法人日本国際教育協会理事長
  • 平成15年1月 群馬県立女子大学長(平成22年8月退任)
  • 平成23年5月2日 高崎市長就任
  • 平成27年5月 高崎市長二期目就任
役職
  • 全国第3セクター市場連絡協議会 会長
  • 全国街路事業促進協議会 理事
  • 公益財団法人 中島記念国際交流財団 理事
  • NPO法人自然体験活動推進協議会 顧問
  • NPO法人学びの支援コンソーシアム 理事長
  • 一般社団法人農山漁村文化協会 「食と農の応援団」 団員
  • 公益財団法人群馬草津国際音楽協会 理事
  • 主な著書・雑誌記事など
  • 『勉強力を引き出す30のヒント』 小学館
  • 『野外教育へのいざない』 小学館
  • 『学習意欲に関する調査研究』 国立教育政策研究所
富岡賢治物語
生い立ちから現在まで、
富岡賢治の人物像に迫ります。
富岡賢治の両親について
共に明治40年代前橋生まれの両親は、ふたりとも学業優秀だった。しかし学歴は、小学校を出たか出なかったかのものだった。
父富岡熊三は、栃木税務署の給士を皮切りに、品川税務署を経て、大蔵省に上り、外国為替の部署に配属され、同期には、野田卯一氏、橋本龍五氏、後の渡辺三菱地所社長等、エリート達がいた。その期間、夜間の中央大学に通った。結婚後、4人の男の子に恵まれたが、戦中戦後の食糧難に家族が苦しんだため、32、3才で地方への転勤を願い出て、三条市の税務署長になった。次に高崎市の税務署長になると、家族は高崎に住み、以降は単身赴任となる。新潟、前橋や浦和の各税務署長を歴任し、最後に国税局監査に戻って退職した。退職後は飯塚町の自宅に、小さな富岡会計事務所を開設。人柄が優しく温厚で、実直だったことから、今回の富岡賢治の市長選でも、幾人かの人から「熊三さんへの恩返として応援するからね!」との温かい言葉をもらった。父熊三は82才で他界した。
母の富岡モトは、前橋一毛町の撚糸工場の娘として不自由なく育ち、小学校を総代で卒業するほど勉学優秀だった。しかし小6の時に結核で病み静養中だった父親が30代で逝去すると、女医になる夢を断念して家業を手伝うことになる。モトの母親は、夫死後も工場を続け、女手一つで4人の子を育て、90才の長寿を全うした。モト自身は、熊三と結婚した後はサラリーマンの妻として、夫が単身赴任の間、4人の子供達をしっかりと養育した。飾らない善良な性格で、家計は質素に倹約し、子供達には勉強しろと一度も言ったことがなかった。晩年は短歌や俳句をたしなみつつ、隣人によくしてもらいながら93才で他界。長男昭晴は税理士として富岡会計事務所を引き継いだ。次男武道は逝去。三男桂三は弁護士、四男賢治が現在、高崎市長候補である。
賢治が結婚すると、父熊三はよく家に泊まりに行って、数日を過ごした。暇な日には朝晩お風呂に入って、いつもニコニコ笑みを絶やさなかった。賢治は、父が滞在中はどんなに仕事が忙しくても早く帰り夕食を一緒にとった。親思いでよく気がつき、父の枕元に水差しを置くよう妻に頼んだ。父親は富岡の岐阜の家にも義弟と一緒に泊まりに行った。
母モトは、乗り物に弱いにもかかわらず、一度神奈川の新しい家に隣組の友人二人と共に泊まりがけで行った。自分の子供4人と孫5人が全て男の子だったが、みな平等によく可愛がった。しかし賢治のところに女の子が生まれると、孫娘の誕生をとても喜び、妻の実家が用意すべき雛人形の段飾りまで用意した。"立て板に水"の如く話をし、頭の回転もよい人で、いつも周囲を楽しませていた。
富岡賢治の幼~高校時代まで
富岡熊三・モトの四男、末子として、昭和21年8月20日生まれる。男ばかりの兄弟の中で育ったが、皆穏やかで取っ組み合いのけんかなどをしたことがなかったためか、高崎の幼稚園入園前、外から母親と幼稚園を見に行くと、まちなかで威勢の良い腕白揃いの子達が沢山いた幼稚園に恐れをなし、「幼稚園には行かない」と言いはって通わなかった。
小学校入学前は、11才上の昭晴兄が、ひらがなくらいは覚えていたほうがいいと、一日で賢治に覚えさせた。兄弟でトランプをしても、小さいのに互角以上に戦った。が、南小に入学すると、一年生の時は、休み時間になると、4才上の桂三兄の教室に入りびたりだった。
転居して一年生の後半から城南小に転校。桂三兄は南小を転校しなかったため、学校での一人立ちを余儀なくされた。その頃、大人の自転車を長兄に教えてもらい乗れるようになったためか、自信をつけて学校でも学級委員になるなど積極的になった。
その後、飯塚町に移住し、塚沢小に更に転校して塚沢小中を卒業した。運動神経がよく、野球が上手く、主力選手の一人だった。いつ頃だったか先生に「富岡の頭を割って中を見てみたいものだ」と言われたと、ランドセルを背負い帰宅し母親に心配しながら告げた。えらぶらない子で、明るくいつもニコニコしながら、時々面白い事を言って皆を笑わせた。
塚沢中学時代は、背が低かったため野球をやめてテニスを始めた。テニスも上手くパートナーに恵まれたおかげもあって大会で優秀な成績を残したりした。高校進学の際には、先生に「日比谷高校にでも行ったらどうか」と言われたが、「将来、政治家の志もあるので、高崎高校に進学したい」と言って、高崎高校に進学した。
高崎高校入学式当日、たまたま父がいて一緒に高校に行くと、別室に案内された。何か書類の不備でもあったかと二人で心配していると、「一番の成績での入学ですので、新入生挨拶をして下さい」と言われ、ホッと胸をなでおろした。高校時代は、読書や映画にも夢中になり、高二で先生に、「君は勉強をしなくても東大に入れるだろうから」と持ち上げられ、生徒会長を頼まれて引き受けた。しかし生徒会長は結構忙しく、人よりかなり遅く始めた受験勉強をする時間はほとんどなかった。好きなテレビ番組『ローハイド』も我慢をせざるを得なかった。
受験は東大一本なので、教科書中心の勉強をした。出そうにない暗記物は一切省き、取捨選択型、短期集中型の勉強にこの時ばかりは一生懸命に取り組んだ。
結果、数学の幾何の試験の解答用紙三枚のうち、一枚目が一つも解けず白紙。これは駄目か、落ちるかと焦った。解答用紙を集める時、白紙を見て気の毒そうな表情をした隣席の人の顔を今でも思い出すという。他の科目は、よくできた気がして、無事東大文一に合格した。
文部省~岐阜県出向時代
昭和44年東大法学部を卒業したが、大学紛争が激しく、全員6月の卒業だった。国家公務員試験に前年合格し、7月から旧文部省に入省した。
富岡は、若く物おじせず、上司や局長、大臣まで、違うと思ったことは違うと直言した。そんな性格だったが、いつもニコニコしていたため、好意を持たれて多くの人にかわいがられた。自分を飾らずにさらけ出し、失敗談を面白可笑しく人に話して、皆に『富ちゃん、富ちゃん』と呼ばれ親しまれ信頼された。
妻は、学年が一年下で、次の年に課は違ったが、賢治がいた所に入省した。その課は自由で明るく、土曜の午後など、若い同年代の職員がいつも数人集まり、一緒に昼食に虎ノ門周辺や霞ヶ関ビル等に行ったり、ボウリングやコントラクトブリッジまで短時間で出かけて楽しみ、また仕事に戻ったりと、友人付き合いが盛んだった。当時の仲間とは今でも仲が良く、年に何回か集まり愉しい時を過ごしている。富岡26才、妻25才で結婚し、妻は文部省辞め専業主婦になり、29才で長男が誕生した。
31才で地方勤務→岐阜市に家族全員を伴い赴任した。岐阜県庁で二年数ヶ月間、県の学校指導課長として働いた。着任後、富岡は県が抱える教育問題は何かをまず聞き、難題だった一番の問題を「では、私がそれを担当しましょう」と言って、高校等からの先生が主だった課の職員の注視を浴びた。そしてその仕事ぶりは、すぐに信望を集めた。岐阜を去った後も先生方が何年も何年も集まって会を開いて招いてくれて、往時の武勇伝を皆で懐かしんでくれた。
なお、岐阜で三才を迎えた長男は、元幼稚園教師だった50代の姉妹が、理想の幼稚園を描いて実家の跡地に建てた三年保育の小さな園に通った。園児は全員ヴァイオリンを習った。妻子同士家々を行き来し、パン作りやパッチワークの手芸、陶器などなど、盛んに交流しながら、岐阜生活を楽しんだ。
在仏日本大使館~大臣秘書官時代
富岡は、実は岐阜に赴く前に、一年間の在外研修の機会を得て米国に渡っていた。大学ではドイツ語を履修。岐阜県出向後の海外派遣が、適任者がいなかったためかフランスに決まったときは驚きだった。急きょ仏語をABCから学ぶことになった。
外務省の研修センターでも赴任前の6ヶ月間の研修義務が妻共々あった。在仏日本大使館には外務省以外からも各省庁一人が三年おきに派遣される。そこでフランスに派遣される同期夫妻との交流は日本にいるときから始まった。フランス組全員昭和56年4月、パリやベルギーに着任した。富岡が34才のとき。
日本大使館で富岡は教育文化担当アタッシェとなった。住まいはブーロニュの森のそばで、当時カナダ大使として海外赴任中のフランス人のマンションを借りた。家賃30万(?)。車はフランスに敬意を表しプジョー505を買った。新車なのによく故障し、困った車だった。妻が買った中古のホンダアコードの方は、故障が一度もなく、はるかに良かった。
運転免許証は大学生の頃に取り、しかも富岡は日本ではペイパードライバー同然だったのに、突如、パリで運転を開始した。そのため、パリの真ん中で富岡の車が身動きが取れず、白バイにどうしたのかと聞かれ、「シャンゼリゼ方面に行きたいが、運転したてで、身動きが取れない」と言うと、「わかった、先導するからついて来い」と言われて無事に脱出。その話を、パリ滞在の東大の浅倉先生に話すと、NHKのフランス語上級講座のテキストの題材にされてしまった。
富岡は会議のときは、前もって主要メンバーのフランス人や日本人の所に秘書を伴い、意見を十分聞き、会を準備し、構築と根回しを図った。長年重鎮だったあるフランス人は、このような仕事をする富岡を大いに評価した。当時の日本大使、内田大使からも信任を得ていった。内田大使は、帰国数年後に富岡が頼むと、高崎市の哲学堂のブルーノタウトの会のために、すぐに応じて多額の文化基金をポンと出してくれた。
また、ある時、パリに常陸宮殿下と妃殿下一行が来られ、富岡他がご案内することに決まった。その際、皇室の方々は、自然の風景や植物のお話がお好きで、華子妃殿下が「富岡さん、あれは何というお花ですか?」とご質問をされた。富岡が「華子妃殿下、私は花の名は、チューリップしか知りませんので、植物のご質問は私になさらないで下さい」と申し上げたら、皆大笑いをしたという。
「殿下は、その日の夕食会で富岡さんのような書記官には、初めてお会いしました。帰国しましたら(昭和)天皇陛下に申し上げましょう」とおっしゃった。しかも翌日のご案内のとき、華子妃殿下がチューリップを指され、「富岡さん、あのお花は何ですか?」とおっしゃると、場に和やかさと親近感がわいた。
また富岡は、パリ駐在の電通をはじめ、JAL他、各日本企業や各新聞社の人たちの仲間に入れてもらった。電通桂邸の番地を取った『5bisの会』が今でも毎年開催され、夫妻共々、泊まりがけのゴルフや食事が催行されて、企業界でも多くの人脈を得ることができた。
その後帰国して、富岡は松永光文部大臣の秘書官に任命された。各大臣秘書官は、それぞれの省庁から選ばれ、大臣に付いて国会に常時同行する。しかも大臣から命じられた仕事は、即時にさばく必要があるため、機転と手腕が要求される。そのため、各秘書官は毎月何回か秘書官会合を開き、親密な関係づくりをして必要な仕事を分野ごとに互いに協力しあった。そんな秘書官仲間とは、その後も世話になったり世話をしたりの関係が続いている。仲間の一人で防衛庁長官の秘書官だった新貝氏は、現在、大分県中津川市長で今回も色々と教示してもらっている。
その後と県立女子大学
その後文部省では、人事課長や総務審議官、局長の役に就いたが、その間、休日の土曜日には、千葉大学に行き、教員になる学生に「教育法規」を教えた。講義は面白く、試験はAを多目に与えたためか、たちまち人気講義になった。高崎経済大学でも講師になって通ったり、群馬大学の評議員も務めたりした。
読売新聞の群馬版に記事の依頼を受け、昨年まで何年かにわたって寄稿した。その後、国立教育研究所長、財)日本国際教育協会理事長を務めた。他にも沢山の役職に就き、その経験を通して、国会議員の方々や知事とも、とても広い面識を得た。
特に、福田康夫氏にはユースホステル協会の会長と副会長の関係で仕え、中曽根弘文氏には文部大臣と局長の関係で仕え、一緒にいろいろな仕事をした。何はともあれ、群馬県関係の仕事を相談されると、富岡は不可能と思われることでも知恵を絞って協力し、できる限りのことをして、良い結果を生み出した。
また、群馬県立女子大では県から学長に任命され、7年7カ月働いた。大学は玉村にあり、富岡はこの大学に通う学生のために、少しでもプラスになることを第一に考え働いた。例えば入学式は、「群響に演奏してもらうのも素晴らしいが、学生自身の演奏もすべきだ」と言って、春休みで帰省中の学生に音楽部長から電話をして呼び出してもらって実現させた。
県立女子大の誇るスポーツの一つに、ネットボールがあった。しかし、オーストラリア遠征があるが、お金がかかるから中止しようという部員たちの声を聞きつけた富岡は、すぐに県内の幾つかの企業に支援を頼んだ。そして、学生を回らせて資金をもらい、お礼を言わせ、帰国後は遠征報告に行かせた。こうした沢山の会社にお世話になり、これを縁に女子学生の就職もお願いした。
また、時に親が授業料を払えなくなる学生もいた。その場合はすぐ中退させず、少し待ってもらうよう県に事務局から働きかけさせた。大学が、そこまで娘のためを思ってくれるならと、何とか金銭を工面して親が授業料を払い、数ヶ月遅れてではあるが、無事卒業した学生が何人もいた。卒論が書けないために、三月に卒業できない学生の問題にも心を配った。卒業すれば四年生の大学を出たことになる。富岡は元々卒論不要論者だが、教授達の抵抗にあって、卒論を書き上げる点は譲った。代わりに教授達にもっと親切に学生を指導するよう頼んだ。一度は郷里に帰ってしまった学生に、教授が一緒に卒論に取り組もうと説得すると、私のために学長や教授がそれほどまでにしてくれるなら頑張ると誓い、半年遅れの卒業を果たした。
英語のTOEICの平均点を大きく上げろという富岡の至上命令に、教授たちから「とても無理」と言う声が上がった。しかし、富岡が引き下がらなかったため、教授達は挑戦せざるを得なかった。結果、目標点を超えただけでなく、900点近い学生も出てきて就職にも大変有利になった。大学祭でも、英語スピーチ他何でも工夫するように言い、大学内を活性化させたため、偏差値は瞬く間に驚くほどに上昇し、学生も教授も卒業生も大学の飛躍に大いに喜んだ。
高崎市長選挙
昨年4月には既に、高崎市長選挙に立候補する枠組が、高崎市で活躍中の主に中高同級生達の多大な協力の下にでき上がり、家族にも市長選出馬の話をした。長男(早稲田大学卒、広告代理店の博報堂本社勤務)と長女(慶應義塾大学医学部1年在学)は、すぐに同意した。長男は、仕事柄、超多忙の中、一昨年は会社から頼まれた博報堂組合員代表になっており、婚約中の相手にも一年結婚を待ってもらい、「自分にできることは何でもする」と快く父親にエールをおくった。長女は、「選挙に出馬できる力強い支えがあるだけでもパパはすごい」と喜んで快諾した。妻は、選挙の大変さを心配し、候補者夫人の役割に自分が何一つ向いていないとの自覚から、富岡の決断は尊重するが、「離婚するか、妻は病気療養中だと切り放してほしい」と言った。
富岡は承知するはずも無いまま、昨年8月末で県立女子大学の学長を辞めると、新聞に市長選への出馬を表明した。10月には高崎駅西口にモダンな後援会事務所がオープンした。そして、事務所のスタッフ男女全員がほとんど富岡の中高の同級生で、車の運転の仕事まで、常時5~6人が毎日詰めてくれるようになり始動した。それを知り、妻は、他人の皆さまにボランティアでそれほどしていただくのに、自分が何もしないわけにはいかないと深く悟った。今では毎日事務所に詰め、挨拶まわりに飛び廻っている。
昨年12月には問屋町ビエントで、富岡が育った地元、塚沢地区が『富岡賢治を応援する会』を主催してくれて600人が集まった。更に選挙対策本部が組まれ、今年1月には、富岡が県立女子大学長時代の内の約7年、ラジオ高崎で好きな曲をかけながら話した内容を集めた『サテライト』という本の出版記念を開き、800人の来場者を得た。
今年2月には、問屋町の糀屋ビル(元福田康夫氏選挙事務所)に選挙事務所を開設。後援会長の高橋正一さんをトップに、阿久澤幹事長、広瀬選挙キャンペーン本部長以下、多数の若い男女のキャンペーンスタッフが常時50人、多い時で100人が活動している。また、塚沢小以来の同級生を始め、多くのボランティアが富岡を市長にするために、勝利を確信して日夜奮闘している。
政  策
  • 1高崎都心部の都市機能の高度化と人口増加を図るため、規制を緩和し、土地の有効活用や建物の高層化を誘導し、マンション、オフィスビルの建設を促進します。
  • 2マンションや戸建て住宅の建設を促進し、住環境の整備をすることで、子育て世代の居住人口の増加を図り少子化問題の解消や、地域コミュニティーの維持を図っていきます。
  • 3高崎市の福祉、介護、子育て支援の施策は群馬県で最も充実しています。さらに市民が利用しやすい制度やサービスを先取りして導入して「日本で一番」をめざします。
  • 4高崎の自然との共生エリアである倉渕地域の自然景観を保全し、農業・林業の振興を図ります。また倉渕の農業、環境、スポーツなどの体験をいかした市民や地域外からの人々の交流人口の増加を図ります。
  • 5箕輪城に代表される歴史・文化・風土を守り、美しい田園風景を大事にした地域づくりを進めます。また箕郷の梅のブランド化や高崎北警察署(仮称)の設置などによる経済活動の活性化を進めます。
  • 6群馬地域の大型商業施設や西毛広幹道を活かし、土地利用の見直しや都市基盤の整備を行い、工業団地や新たな戸建て住宅団地の整備ができる計画づくりを推進していきます。また、国分寺遺跡の整備や国分野菜の振興などに取組みます。
  • 7JR新町駅付近連続立体交差事業を推進していきます。鉄道による新町地域の南北分断や、踏切での慢性的な交通渋滞を解消し、より利便性の高いコンパクトなまちづくり計画を検討していきます。
  • 8榛名湖、榛名神社、榛名の果樹などのブランド力を向上させ、集客力の増大や販路の拡大を図るために、首都圏や海外を睨んだ新しい観光と農業ゾーンとして振興していくために、多彩な事業展開や基盤整備を推進していきます。
  • 9吉井地域の道路や生活基盤の整備、上信電鉄の活用を行い、より快適な住環境をつくっていきます。また吉井インターを活用した新たな産業基盤整備の検討を行い、高崎南部の経済拠点としていきます。
  • 10高崎玉村スマートインターチェンジ周辺の産業団地、高崎市総合卸売市場周辺の複合産業団地の開発整備により、高崎駅東口から高崎玉村スマートインターチェンジまでを高崎の産業発展の中心軸としていきます。
  • 11高崎市のごみ処理の大半を担っている高浜クリーンセンターの老朽化に対応して、社会情勢の変化に対応可能な規模及び能力を備えた施設の建替えを行い、2022年度中の完成をめざします。
  • 12高崎駅東口栄町地区市街地再開発を推進します。商業施設、オフィス、経済文化活動のためのパブリックゾーン、キッズゾーン、住居ゾーンの整備を検討していきます。また高崎の顔となるホテルの誘致も推進します。
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〒370-0847 高崎市和田町3番地4 アストラーレ101号 TEL:027-386-6800 FAX:027-386-6801
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