富岡賢治物語

目次
富岡賢治の両親について
富岡賢治の幼~高校時代まで
文部省~岐阜県出向時代
在仏日本大使館~大臣秘書官時代
その後と県立女子大学
高崎市長選挙

富岡賢治の両親について

 共に明治40年代前橋生まれの両親は、ふたりとも学業優秀だった。しかし学歴は、小学校を出たか出なかったかのものだった。

 父富岡熊三は、栃木税務署の給士を皮切りに、品川税務署を経て、大蔵省に上り、外国為替の部署に配属され、同期には、野田卯一氏、橋本龍五氏、後の渡辺三菱地所社長等、エリート達がいた。その期間、夜間の中央大学に通った。結婚後、4人の男の子に恵まれたが、戦中戦後の食糧難に家族が苦しんだため、32、3才で地方への転勤を願い出て、三条市の税務署長になった。次に高崎市の税務署長になると、家族は高崎に住み、以降は単身赴任となる。新潟、前橋や浦和の各税務署長を歴任し、最後に国税局監査に戻って退職した。退職後は飯塚町の自宅に、小さな富岡会計事務所を開設。人柄が優しく温厚で、実直だったことから、今回の富岡賢治の市長選でも、幾人かの人から「熊三さんへの恩返として応援するからね!」との温かい言葉をもらった。父熊三は82才で他界した。

 母の富岡モトは、前橋一毛町の撚糸工場の娘として不自由なく育ち、小学校を総代で卒業するほど勉学優秀だった。しかし小6の時に結核で病み静養中だった父親が30代で逝去すると、女医になる夢を断念して家業を手伝うことになる。モトの母親は、夫死後も工場を続け、女手一つで4人の子を育て、90才の長寿を全うした。モト自身は、熊三と結婚した後はサラリーマンの妻として、夫が単身赴任の間、4人の子供達をしっかりと養育した。飾らない善良な性格で、家計は質素に倹約し、子供達には勉強しろと一度も言ったことがなかった。晩年は短歌や俳句をたしなみつつ、隣人によくしてもらいながら93才で他界。長男昭晴は税理士として富岡会計事務所を引き継いだ。次男武道は逝去。三男桂三は弁護士、四男賢治が現在、高崎市長候補である。

 賢治が結婚すると、父熊三はよく家に泊まりに行って、数日を過ごした。暇な日には朝晩お風呂に入って、いつもニコニコ笑みを絶やさなかった。賢治は、父が滞在中はどんなに仕事が忙しくても早く帰り夕食を一緒にとった。親思いでよく気がつき、父の枕元に水差しを置くよう妻に頼んだ。父親は富岡の岐阜の家にも義弟と一緒に泊まりに行った。

 母モトは、乗り物に弱いにもかかわらず、一度神奈川の新しい家に隣組の友人二人と共に泊まりがけで行った。自分の子供4人と孫5人が全て男の子だったが、みな平等によく可愛がった。しかし賢治のところに女の子が生まれると、孫娘の誕生をとても喜び、妻の実家が用意すべき雛人形の段飾りまで用意した。"立て板に水"の如く話をし、頭の回転もよい人で、いつも周囲を楽しませていた。

ページのトップへ

富岡賢治の幼~高校時代まで

 富岡熊三・モトの四男、末子として、昭和21年8月20日生まれる。男ばかりの兄弟の中で育ったが、皆穏やかで取っ組み合いのけんかなどをしたことがなかったためか、高崎の幼稚園入園前、外から母親と幼稚園を見に行くと、まちなかで威勢の良い腕白揃いの子達が沢山いた幼稚園に恐れをなし、「幼稚園には行かない」と言いはって通わなかった。

 小学校入学前は、11才上の昭晴兄が、ひらがなくらいは覚えていたほうがいいと、一日で賢治に覚えさせた。兄弟でトランプをしても、小さいのに互角以上に戦った。が、南小に入学すると、一年生の時は、休み時間になると、4才上の桂三兄の教室に入りびたりだった。

 転居して一年生の後半から城南小に転校。桂三兄は南小を転校しなかったため、学校での一人立ちを余儀なくされた。その頃、大人の自転車を長兄に教えてもらい乗れるようになったためか、自信をつけて学校でも学級委員になるなど積極的になった。

その後、飯塚町に移住し、塚沢小に更に転校して塚沢小中を卒業した。運動神経がよく、野球が上手く、主力選手の一人だった。いつ頃だったか先生に「富岡の頭を割って中を見てみたいものだ」と言われたと、ランドセルを背負い帰宅し母親に心配しながら告げた。えらぶらない子で、明るくいつもニコニコしながら、時々面白い事を言って皆を笑わせた。

 塚沢中学時代は、背が低かったため野球をやめてテニスを始めた。テニスも上手くパートナーに恵まれたおかげもあって大会で優秀な成績を残したりした。高校進学の際には、先生に「日比谷高校にでも行ったらどうか」と言われたが、「将来、政治家の志もあるので、高崎高校に進学したい」と言って、高崎高校に進学した。

 高崎高校入学式当日、たまたま父がいて一緒に高校に行くと、別室に案内された。何か書類の不備でもあったかと二人で心配していると、「一番の成績での入学ですので、新入生挨拶をして下さい」と言われ、ホッと胸をなでおろした。高校時代は、読書や映画にも夢中になり、高二で先生に、「君は勉強をしなくても東大に入れるだろうから」と持ち上げられ、生徒会長を頼まれて引き受けた。しかし生徒会長は結構忙しく、人よりかなり遅く始めた受験勉強をする時間はほとんどなかった。好きなテレビ番組『ローハイド』も我慢をせざるを得なかった。

受験は東大一本なので、教科書中心の勉強をした。出そうにない暗記物は一切省き、取捨選択型、短期集中型の勉強にこの時ばかりは一生懸命に取り組んだ。

 結果、数学の幾何の試験の解答用紙三枚のうち、一枚目が一つも解けず白紙。これは駄目か、落ちるかと焦った。解答用紙を集める時、白紙を見て気の毒そうな表情をした隣席の人の顔を今でも思い出すという。他の科目は、よくできた気がして、無事東大文一に合格した。

ページのトップへ

文部省~岐阜県出向時代

 昭和44年東大法学部を卒業したが、大学紛争が激しく、全員6月の卒業だった。国家公務員試験に前年合格し、7月から旧文部省に入省した。

 富岡は、若く物おじせず、上司や局長、大臣まで、違うと思ったことは違うと直言した。そんな性格だったが、いつもニコニコしていたため、好意を持たれて多くの人にかわいがられた。自分を飾らずにさらけ出し、失敗談を面白可笑しく人に話して、皆に『富ちゃん、富ちゃん』と呼ばれ親しまれ信頼された。

 妻は、学年が一年下で、次の年に課は違ったが、賢治がいた所に入省した。その課は自由で明るく、土曜の午後など、若い同年代の職員がいつも数人集まり、一緒に昼食に虎ノ門周辺や霞ヶ関ビル等に行ったり、ボウリングやコントラクトブリッジまで短時間で出かけて楽しみ、また仕事に戻ったりと、友人付き合いが盛んだった。当時の仲間とは今でも仲が良く、年に何回か集まり愉しい時を過ごしている。富岡26才、妻25才で結婚し、妻は文部省辞め専業主婦になり、29才で長男が誕生した。

 31才で地方勤務→岐阜市に家族全員を伴い赴任した。岐阜県庁で二年数ヶ月間、県の学校指導課長として働いた。着任後、富岡は県が抱える教育問題は何かをまず聞き、難題だった一番の問題を「では、私がそれを担当しましょう」と言って、高校等からの先生が主だった課の職員の注視を浴びた。そしてその仕事ぶりは、すぐに信望を集めた。岐阜を去った後も先生方が何年も何年も集まって会を開いて招いてくれて、往時の武勇伝を皆で懐かしんでくれた。

 なお、岐阜で三才を迎えた長男は、元幼稚園教師だった50代の姉妹が、理想の幼稚園を描いて実家の跡地に建てた三年保育の小さな園に通った。園児は全員ヴァイオリンを習った。妻子同士家々を行き来し、パン作りやパッチワークの手芸、陶器などなど、盛んに交流しながら、岐阜生活を楽しんだ。

ページのトップへ

在仏日本大使館~大臣秘書官時代

 富岡は、実は岐阜に赴く前に、一年間の在外研修の機会を得て米国に渡っていた。大学ではドイツ語を履修。岐阜県出向後の海外派遣が、適任者がいなかったためかフランスに決まったときは驚きだった。急きょ仏語をABCから学ぶことになった。

 外務省の研修センターでも赴任前の6ヶ月間の研修義務が妻共々あった。在仏日本大使館には外務省以外からも各省庁一人が三年おきに派遣される。そこでフランスに派遣される同期夫妻との交流は日本にいるときから始まった。フランス組全員昭和56年4月、パリやベルギーに着任した。富岡が34才のとき。

 日本大使館で富岡は教育文化担当アタッシェとなった。住まいはブーロニュの森のそばで、当時カナダ大使として海外赴任中のフランス人のマンションを借りた。家賃30万(?)。車はフランスに敬意を表しプジョー505を買った。新車なのによく故障し、困った車だった。妻が買った中古のホンダアコードの方は、故障が一度もなく、はるかに良かった。

運転免許証は大学生の頃に取り、しかも富岡は日本ではペイパードライバー同然だったのに、突如、パリで運転を開始した。そのため、パリの真ん中で富岡の車が身動きが取れず、白バイにどうしたのかと聞かれ、「シャンゼリゼ方面に行きたいが、運転したてで、身動きが取れない」と言うと、「わかった、先導するからついて来い」と言われて無事に脱出。その話を、パリ滞在の東大の浅倉先生に話すと、NHKのフランス語上級講座のテキストの題材にされてしまった。

 富岡は会議のときは、前もって主要メンバーのフランス人や日本人の所に秘書を伴い、意見を十分聞き、会を準備し、構築と根回しを図った。長年重鎮だったあるフランス人は、このような仕事をする富岡を大いに評価した。当時の日本大使、内田大使からも信任を得ていった。内田大使は、帰国数年後に富岡が頼むと、高崎市の哲学堂のブルーノタウトの会のために、すぐに応じて多額の文化基金をポンと出してくれた。

 また、ある時、パリに常陸宮殿下と妃殿下一行が来られ、富岡他がご案内することに決まった。その際、皇室の方々は、自然の風景や植物のお話がお好きで、華子妃殿下が「富岡さん、あれは何というお花ですか?」とご質問をされた。富岡が「華子妃殿下、私は花の名は、チューリップしか知りませんので、植物のご質問は私になさらないで下さい」と申し上げたら、皆大笑いをしたという。

 「殿下は、その日の夕食会で富岡さんのような書記官には、初めてお会いしました。帰国しましたら(昭和)天皇陛下に申し上げましょう」とおっしゃった。しかも翌日のご案内のとき、華子妃殿下がチューリップを指され、「富岡さん、あのお花は何ですか?」とおっしゃると、場に和やかさと親近感がわいた。

 また富岡は、パリ駐在の電通をはじめ、JAL他、各日本企業や各新聞社の人たちの仲間に入れてもらった。電通桂邸の番地を取った『5bisの会』が今でも毎年開催され、夫妻共々、泊まりがけのゴルフや食事が催行されて、企業界でも多くの人脈を得ることができた。

 その後帰国して、富岡は松永光文部大臣の秘書官に任命された。各大臣秘書官は、それぞれの省庁から選ばれ、大臣に付いて国会に常時同行する。しかも大臣から命じられた仕事は、即時にさばく必要があるため、機転と手腕が要求される。そのため、各秘書官は毎月何回か秘書官会合を開き、親密な関係づくりをして必要な仕事を分野ごとに互いに協力しあった。そんな秘書官仲間とは、その後も世話になったり世話をしたりの関係が続いている。仲間の一人で防衛庁長官の秘書官だった新貝氏は、現在、大分県中津川市長で今回も色々と教示してもらっている。

ページのトップへ

その後と県立女子大学

 その後文部省では、人事課長や総務審議官、局長の役に就いたが、その間、休日の土曜日には、千葉大学に行き、教員になる学生に「教育法規」を教えた。講義は面白く、試験はAを多目に与えたためか、たちまち人気講義になった。高崎経済大学でも講師になって通ったり、群馬大学の評議員も務めたりした。

 読売新聞の群馬版に記事の依頼を受け、昨年まで何年かにわたって寄稿した。その後、国立教育研究所長、財)日本国際教育協会理事長を務めた。他にも沢山の役職に就き、その経験を通して、国会議員の方々や知事とも、とても広い面識を得た。

 特に、福田康夫氏にはユースホステル協会の会長と副会長の関係で仕え、中曽根弘文氏には文部大臣と局長の関係で仕え、一緒にいろいろな仕事をした。何はともあれ、群馬県関係の仕事を相談されると、富岡は不可能と思われることでも知恵を絞って協力し、できる限りのことをして、良い結果を生み出した。

また、群馬県立女子大では県から学長に任命され、7年7カ月働いた。大学は玉村にあり、富岡はこの大学に通う学生のために、少しでもプラスになることを第一に考え働いた。例えば入学式は、「群響に演奏してもらうのも素晴らしいが、学生自身の演奏もすべきだ」と言って、春休みで帰省中の学生に音楽部長から電話をして呼び出してもらって実現させた。

 県立女子大の誇るスポーツの一つに、ネットボールがあった。しかし、オーストラリア遠征があるが、お金がかかるから中止しようという部員たちの声を聞きつけた富岡は、すぐに県内の幾つかの企業に支援を頼んだ。そして、学生を回らせて資金をもらい、お礼を言わせ、帰国後は遠征報告に行かせた。こうした沢山の会社にお世話になり、これを縁に女子学生の就職もお願いした。

 また、時に親が授業料を払えなくなる学生もいた。その場合はすぐ中退させず、少し待ってもらうよう県に事務局から働きかけさせた。大学が、そこまで娘のためを思ってくれるならと、何とか金銭を工面して親が授業料を払い、数ヶ月遅れてではあるが、無事卒業した学生が何人もいた。卒論が書けないために、三月に卒業できない学生の問題にも心を配った。卒業すれば四年生の大学を出たことになる。富岡は元々卒論不要論者だが、教授達の抵抗にあって、卒論を書き上げる点は譲った。代わりに教授達にもっと親切に学生を指導するよう頼んだ。一度は郷里に帰ってしまった学生に、教授が一緒に卒論に取り組もうと説得すると、私のために学長や教授がそれほどまでにしてくれるなら頑張ると誓い、半年遅れの卒業を果たした。

 英語のTOEICの平均点を大きく上げろという富岡の至上命令に、教授たちから「とても無理」と言う声が上がった。しかし、富岡が引き下がらなかったため、教授達は挑戦せざるを得なかった。結果、目標点を超えただけでなく、900点近い学生も出てきて就職にも大変有利になった。大学祭でも、英語スピーチ他何でも工夫するように言い、大学内を活性化させたため、偏差値は瞬く間に驚くほどに上昇し、学生も教授も卒業生も大学の飛躍に大いに喜んだ。

ページのトップへ

高崎市長選挙

 昨年4月には既に、高崎市長選挙に立候補する枠組が、高崎市で活躍中の主に中高同級生達の多大な協力の下にでき上がり、家族にも市長選出馬の話をした。長男(早稲田大学卒、広告代理店の博報堂本社勤務)と長女(慶應義塾大学医学部1年在学)は、すぐに同意した。長男は、仕事柄、超多忙の中、一昨年は会社から頼まれた博報堂組合員代表になっており、婚約中の相手にも一年結婚を待ってもらい、「自分にできることは何でもする」と快く父親にエールをおくった。長女は、「選挙に出馬できる力強い支えがあるだけでもパパはすごい」と喜んで快諾した。妻は、選挙の大変さを心配し、候補者夫人の役割に自分が何一つ向いていないとの自覚から、富岡の決断は尊重するが、「離婚するか、妻は病気療養中だと切り放してほしい」と言った。

 富岡は承知するはずも無いまま、昨年8月末で県立女子大学の学長を辞めると、新聞に市長選への出馬を表明した。10月には高崎駅西口にモダンな後援会事務所がオープンした。そして、事務所のスタッフ男女全員がほとんど富岡の中高の同級生で、車の運転の仕事まで、常時5~6人が毎日詰めてくれるようになり始動した。それを知り、妻は、他人の皆さまにボランティアでそれほどしていただくのに、自分が何もしないわけにはいかないと深く悟った。今では毎日事務所に詰め、挨拶まわりに飛び廻っている。

 昨年12月には問屋町ビエントで、富岡が育った地元、塚沢地区が『富岡賢治を応援する会』を主催してくれて600人が集まった。更に選挙対策本部が組まれ、今年1月には、富岡が県立女子大学長時代の内の約7年、ラジオ高崎で好きな曲をかけながら話した内容を集めた『サテライト』という本の出版記念を開き、800人 の来場者を得た。

 今年2月には、問屋町の糀屋ビル(元福田康夫氏選挙事務所)に選挙事務所を開設。後援会長の高橋正一さんをトップに、阿久澤幹事長、広瀬選挙キャンペーン本部長以下、多数の若い男女のキャンペーンスタッフが常時50人、多い時で100人が活動している。また、塚沢小以来の同級生を始め、多くのボランティアが富岡を市長にするために、勝利を確信して日夜奮闘している。

ページのトップへ